KOF'XIII アッシュ ストーリー




重苦しい雲に覆われた低い空を飛び去っていく航空機のエンジン音が、束の間、ふたりの会話をさえぎった。
 遠ざかっていく機影を見送る二階堂紅丸の足元には大きなバッグが置かれている。対して、デュオロンは身ひとつの手ぶらだった。
 神出鬼没のこの男なら、妙に納得がいく。基本、この男は自分とは異なる世界の住人なのだと、紅丸はそう考えていた。
「――入院?」
 エンジン音に邪魔された先ほどの問いを、デュオロンが繰り返した。
「草薙京が?」
「といっても検査入院だよ。――重いか軽いかでいえば、八神を止めようとしてボコボコにされた真吾のほうがよっぽど重症だ。全身の骨折だけでも、ひと月やふた月じゃ治らないだろうさ」
 それでも、命があっただけましかもしれない。“血”の暴走を起こした八神庵と相対して、その程度の怪我ですんだのなら、それはむしろ僥倖というべきだろう。
 ロングコートのポケットに手を突っ込んだまま、紅丸から少し離れた位置に立ち尽くしていたデュオロンは、静かに瞳を伏せて嘆息した。
「……それでおまえも帰国か」
「ま、ひとまずな。……このまま引き下がるあいつじゃない。ってことは、あいつがチームを組もうって相手はほかにはいないだろ?」
「そういうものか」
「そういうもんだよ」
 大きくうなずいた紅丸は、ふと笑みを納めて続けた。
「――おまえ、あの男をさがしてるんだろ?」
「あの男とは?」
「とぼけるなよ。俺はあの男と会ったことがあるんだぜ?」
「……そうだったな」
 飛賊と呼ばれる暗殺者集団の一員であるデュオロンは、一族を裏切って出奔したみずからの父親――ロンを捜し続けている。本来なら表舞台に姿を現すことのないはずのデュオロンが、“ザ・キング・オブ・ファイターズ”にたびたび出場しているのも、おそらくロンの行方を捜すためなのだろう。
 風になびく金髪をかき上げ、紅丸はいった。
「もしまたどこかであの男の噂を耳にしたら、おまえに知らせてやるよ」
「すまない、二階堂。世話をかける」
「別に礼なんかいらないさ。――その代わり、あの小僧を見つけたら俺にも教えてくれ」
 デュオロンはしばし無言で紅丸を見やった。
「……おまえとアッシュの間にどんな因縁がある?」
「俺にはないが、あいつにはあるだろうさ。――結局、みんなアッシュにハメられてたってことだろ?」
「また草薙の世話か……まるで保護者だな」
「よせよ」
 ふたたび苦笑に表情を崩した紅丸は、腕時計を一瞥してフェンスから背を浮かせた。
「……そろそろ搭乗時間だ」
「息災でな」
 バッグを肩にかけて歩き出した紅丸に、デュオロンが淡々と言葉を投げかけた。これから旅に出る知己を見送るのにふさわしからぬ、冷淡で素っ気ないひと言だった。
 紅丸は肩越しにデュオロンを振り返った。
「――案外、すぐにまた顔を合わせることになるかもしれないぜ?」
「だとしても、その時はもう同じチームではない」
「……だろうな」
 また1機、巨大なジェット機が滑走路に向かって舞い降りてくる。逆巻く風がふたりの長い髪を乱し、またもや彼らの会話を途切れさせた。
 強い風から顔をそむけた紅丸が、あらためてデュオロンに声をかけようとした時、さっきまでそこにあったはずの黒い長身の影は、すでにいずこかへと消えていた。
「……らしいといえばらしい、か」
 小さく鼻を鳴らし、紅丸はバッグを揺すり上げた。



      ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 このあたりの地価がどのくらいかということは、あいにくと門外漢の紅丸にはよく判らない。ただ、決して安くないだろうということは想像がつく。
 そういう場所に、これだけの広い屋敷を構えていられるということは、財力はもとより、それとはまた別の、隠然たる力が必要だろう。
 そして、今は神楽家と名乗っているこの古い一族には、実際にそうした力があるらしかった。
 広い庭の池のほとりにしゃがみ込み、ぼんやりと大きな鯉たちが泳ぐさまを眺めていた紅丸は、かすかな絹鳴りの音を聞きつけて振り返った。
「――いつ日本に?」
 そう問うたのは、藤色の浴衣をまとった黒髪の和風美人――神楽ちづるだった。
「つい数時間前さ」
「フットワークが軽くてうらやましいわ」
 少しさびしげに微笑んだちづるは、庭に面した座敷の縁側に、浴衣の裾を綺麗にさばいて座った。
 今年の日本の夏はいつもより蒸し暑く感じる。しかし、ちづるの顔色がさえないのは、絡みつくような暑さに辟易しているからではないのだろう。
 冷たい宇治茶を運んできた家人が下がるのを待って、紅丸は単刀直入に尋ねた。
「具合のほうは相変わらずなのかい、ちづるさん?」
「ええ。身体のほうはどうにかもとにもどったけれど、“力”のほうは――」
「そうか……」
「そういえば、肝心なことを忘れていたわ。優勝おめでとう、二階堂さん」
「よしてくれよ。対戦相手が途中で“失踪”しちまった上での不戦勝だぜ? 人さまに胸を張って報告できるような結果じゃあない」
 縁台に腰を降ろし、冷茶のグラスをあおる。冷たい渋みが紅丸の喉の奥をすべり落ち、ほのかな甘みとなって口の中に広がっていった。
 確かにこの心持ちは、栄えある優勝者のそれとはほど遠い。むしろ紅丸は、敗者にもひとしい口惜しさをかかえて日本に帰国してきたのだった。
 神楽家の現当主である神楽ちづると、草薙流の継承者たる草薙京、そして八神流の八神庵――。
 彼ら3人は、すでに神話と化した遠い昔、増長した人類を粛清しようとした地球意思“オロチ”と戦い、これを封じた“三種の神器”の末裔である。
 現代に復活しようとしたオロチを、激闘の末にふたたび封じることに成功した3人は、しかし、前々回の“ザ・キング・オブ・ファイターズ”において、そのオロチに比肩しうるかもしれない強大な敵と遭遇した。
“遥けし彼の地より出づる者”――。
 彼らはみずからをそう呼んだ。人類によく似た姿を持ち、しかし、人類とは決定的に異なる異種族。彼らのいう“彼の地”がどこを意味しているのかは、ちづるたちも知らない。
 ただ、彼らの狙いが、封じられたオロチの力にあるのだということは明確だった。
 我が主にオロチの力を満たす――。
“三種の神器”の前に姿を現した“遥けし彼の地より出づる者”のひとり、無界なる男は、はっきりとそういったのである。



 からりと、グラスの中で氷が鳴った。
 うんざりするような蝉の声はいつの間にか絶え、あたりには居心地の悪い沈黙の帳が落ちている。
 瀟洒な庭を見つめたまま、紅丸は口を開いた。
「――なあ、ちづるさん。今、オロチの封印はどうなってるんだい?」
「残念ですが……わたしが力を奪われたために、オロチの封印は解かれてしまいました」
 ちづるは淡々と答えたが、紅丸が一瞥した彼女の眉間には、忸怩たる思いをしめすシワがかすかに刻まれていた。
「封印を解かれたオロチが、どこかでよみがえった……ってことは、ありえるのかな?」
「それはないでしょう。以前、わたしの姉がゲーニッツに殺され、やはり封印が破られたことがありましたが、オロチの復活までにはさらに数年の時を要しました。まして、わたしたちが再度封印したオロチは完全な復活を遂げたわけではなく、逆に草薙や八神との戦いでかなり弱っていたはずです」
「ってことは、そのオロチがもう一度実体を得て復活するには、それなりに長い時間がかかるってわけか」
「おそらくそうなると思います。……ですが、封印から解放されたオロチが、今どこにいるのかまでは、わたしにも判りません。あるいはすでにオロチの力は、あの無界という男がいっていたように、彼らの主とやらにそそぎ込まれてしまったのかも――」
「ちづるさんにもそのへんのことは判らないのかい?」
「……面目ありません」
 黒髪を押さえ、ちづるはふかぶかと頭を下げた。
「“八咫の鏡”の力を失った今のわたしには、オロチの気配を察することすらできないのです」
「別にちづるさんが謝ることじゃないさ。悪いのはあの小僧なんだから」
 ちづるを罠におとしいれたのは“遥けし彼の地より出づる者”たちだが、彼女の力を実際に奪っていったのは、アッシュ・クリムゾンだった。以来、ちづるの神器としての力――オロチの封印を“護る者”としての力は、奪われたままになっている。
 ちづるはゆっくりと団扇を揺らしながら呟いた。
「アッシュ・クリムゾン……彼はいったい何者なのでしょう?」
「そいつは俺も気になってるんだ。……あいつ、例の長ったらしい名前の連中とはたがいに知り合いらしいんだが、どういう関係なのかがどうにも判らなくてね」
 過去に2度、紅丸はKOFを通じてアッシュと会っている。
 ひと言でいえば、得体の知れないそばかすの小僧、というところだろう。京や庵のものとは違う緑色の炎をあやつるあの少年が、いったい何を考え、何のために行動しているのか、紅丸にはもちろんのこと、旧知の仲であるはずのデュオロンすら何も知らないという。
 縁台を離れてふたたび池のほとりに立った紅丸は、静かな水面に映る自分の姿を見つめ、いっこうにまとまりそうにない考えをあれこれとひねくり回した。
「アッシュとあの連中……仲間なのかと思えば本気でやり合ったり、といって古くからの敵同士という感じでもないしな」
「共闘関係にあったものを、あの少年のほうが裏切った――とは考えられませんか?」
「さてね。……ただ、俺が組んだエリザベートってレディは、アッシュのことを同じ使命を持つ同志だといっていたぜ。裏切ったってことでいえば、むしろ彼女のほうがアッシュに裏切られた口だよ。アッシュの野郎、そんな使命なんか忘れたってほざいてたからな」
 前回のKOFでは、紅丸はデュオロンとともに、エリザベート・ブラントルシュをリーダーとするチームで参戦した。
 エリザベート自身は、参戦の目的やアッシュとの関係など、肝心なことについては黙したまま口を開こうとしなかったが、少なくとも紅丸が見るかぎりでは、エリザベートとアッシュはかなり親しい仲にあるようだった。
 長い金髪をかき上げ、紅丸は大袈裟に溜息をついた。
「たぶんエリザベートは、アッシュが何者なのか、何をしようとしているのか、そのすべてを知ってるはずだ。……だが、俺がいくら尋ねても教えちゃくれなかった。たぶん、この先も完全にノーコメントだろうな」
「そのかたの立場も判るような気がします。……おそらく、かつてのわたしと似たようなものなのでしょう」
「きみと似た立場……?」
「ええ。“遥けし彼の地より出づる者”……彼らをオロチ一族に比するなら、それを宿敵とみなすエリザベート・ブラントルシュはまさしくわたしの立場。とすれば、アッシュ・クリムゾンは――」
「さしずめ、“三種の神器”の輪からはずれた八神庵、かい?」
 ちづるを振り返り、紅丸は目を細めた。
「かもしれません。エリザベート・ブラントルシュと“遥けし彼の地より出づる者”が敵対している間で、アッシュはその双方と通じながら、どちらの仲間ともいいきれないポジションにいるように見えます」
「いずれにしても、アッシュの本当の狙いが何なのか、本人を締め上げて吐かせるしかないみたいだな。ついでというわけじゃないが、きみの力も取り返さないと」
「ですが、それも当人の居場所が判らないかぎりは……」
「じきに判るさ」
 そう断言した紅丸の耳には、最後に出会った時のアッシュ・クリムゾンの言葉が今もはっきりとこびりついている。
「あいつは、八神の持つ“八尺瓊の勾玉”の力を奪って逃げる時に、こういったんだぜ。――次は京の番だってな」
 すでにアッシュは、ちづるの持つ“八咫の鏡”に引き続き、先だっての大会において、八神庵の“八尺瓊の勾玉”の力まで手にしていた。これまで2度にわたってオロチを鎮めてきた三種の神器は、いまや草薙京が持つ“草薙の剣”しか、その正当な継承者の手に残されていないことになる。
 そしてアッシュは、その最後のひとつすら、いずれ手に入れるとうそぶいているのである。
 血の気の薄い唇を噛み締め、ちづるは呟いた。
「たとえオロチの力がいまだに彼らの手に渡っていなかったとしても、もし草薙の“力”までがアッシュの手に渡ってしまえば、オロチをふたたび封印することはできなくなります」
「そうはさせないさ」
 紅丸の白い革のパンツのポケットで、携帯電話が震え出した。
「これまでのやり口を考えれば、アッシュが真正面から京とやり合うことはないだろう。何らかのどさくさにまぎれて――たぶん、次もKOFの舞台を選んで仕掛けてくると思うよ」
「では――?」
「ああ。どうして俺が日本に戻ってきたと思う? もちろん、目的のひとつはきみの顔を見るためだけどね」
 ストラップをつまんで携帯電話を取り出し、おどけたようにぷらぷらと揺らしながら、紅丸はちづるにウインクした。
「――チームメイトとミーティングの時間だ。名残惜しいが、そろそろおいとまさせてもらうよ」



      ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 冷たく乾いた河北の大地で生まれ育ったデュオロンにとって、江南の上海はあくまで異邦の地でしかなかったが、それでもここを訪れるたびに懐かしさに似た感情を覚えるのは、少なからずここで積み上げてきた過去があるからだろう。
 デュオロンの知己は、この街が年々住みにくくなっている、とぼやいたことがある。
 いまや世界経済の中心ともいうべき中国において、首都北京をしのぐ繁栄を見せる上海が、なぜ住みにくい街になりつつあるというのか――それはもしかすると、彼が日の当たらない場所でしか生きられない人種だからなのかもしれない。
 古い街並みが壊され、代わって天を摩するような美しいビルが次々に建設されていく中で、社会の日陰者たちは、その生き方を少しずつ変えていく。腕力にうったえることしか知らなかった黒社会の男たちも、この街では、もっとスマートなやり方を学んで生きていかざるをえない。
 だが、彼は違う。
 時代がどんなに変わろうと、街の風景がどんなに変わろうと、彼は自分が変わることを受け入れない。
 だから、真新しい上海が住みにくいと感じるのだろう。
 不器用なその男の名を、シェン・ウーという。
 デュオロンはその男に会うために、上海へと戻ってきた。


 前回のKOFの直後、シェン・ウーは、チームメイトたちとともに唐突にその行方が判らなくなった。
 一部では死亡説まで流れたが、もとよりデュオロンはそれを信じていなかった。シェンがそう簡単に死ぬような男ではないと知っていたからである。
 その考えが正しかったことは、上海に着いてすぐに証明された。
「……どこにいても目立つ男だ」
 シェン・ウーの健在ぶりを見下ろし、デュオロンは冷ややかに微笑んだ。
 開け放たれた高窓の、窓枠のところに腰を降ろしたデュオロンの眼下では、ほんの10分前の祝賀ムードから一転して、阿鼻叫喚の修羅場が繰り広げられていた。
 そもそもこのレストランのホールでは、ここのオーナーでもある新安清会の会長――いわゆるチャイニーズマフィアのボスの、還暦を祝うパーティーが開かれていた。列席者の大半は、当然、組織の構成員たちである。
 そのホールに、巨大なダンプで壁をぶち抜いて突っ込んできたシェンは、驚きに動きの止まった男たちに嬉々として襲いかかった。KOFの場でも、こんな派手なパフォーマンスはまず見られないだろう。
 ダンプに跳ね飛ばされ、あるいは乱闘でひっくり返されたのか、白いクロスのかかったテーブルはことごとく倒れ、そこに並べられていた酒や料理はすべて床の上にぶちまけられていた。
 何ともいえない匂いを放つそのぬかるみの中に、ボスの誕生日を祝うために集っていた黒社会の男たちが、次々に殴り倒され、突っ伏していく。数の上では圧倒的に有利であるはずの男たちが、シェンひとりの暴力の前に、なすすべなく屈服しようとしていた。
 同士討ちを恐れているのか、男たちが銃を持ち出すことはなかったが、たとえ彼らが銃を使ったとしても、ダンプの突入から最後の男が昏倒するまでのタイムが少し遅れるくらいの差しかなかっただろう。それほどまでに、シェンの戦闘力は圧倒的だった。
 シェンのファイトスタイルには、たとえば武術という言葉から連想されるような流麗さなどかけらもない。デュオロンのように、音もなく敵の背後に忍び寄って一撃するようなひそやかさもない。荒々しく手足を振り回し、罵声をまき散らしながら、触れるものを片っ端からなぎ倒していくその戦い方は、まさしくケンカと呼ぶにふさわしかった。
 その締めくくりに、逃げ遅れて腰を抜かしていた小太りのボスが、容赦のない鉄拳を食らってすべての歯を砕かれたところで、デュオロンは惨劇の巷に軽やかに降り立った。
「――ふぅ」
 拳についた血を振り払い、ずいぶんと静かになったホールを見回していたシェンは、ダンプのかたわらに立っていたデュオロンに気づいてこともなげに手を振った。
「よう」
「……また派手にやったものだな」
「ナメたことをしてくれた相手にゃ、それ相応のペナルティを食らわしてやらねェとな」
 シェンがにんまりと唇を吊り上げると、その隙間から、よく発達した犬歯が覗いた。
 デュオロンはシェンの足元に血まみれになって倒れている老人を一瞥し、いまさらのように尋ねた。
「この連中がおまえに何かしたのか?」
「殺し屋なんざ雇って俺をブッ殺そうとしやがったんだよ」
 そういいながら、シェンは腕や首に巻かれていた包帯をわずらわしげに引きむしっている。包帯の下の傷はほとんどふさがりかけていたが、察するに、それがシェンのいう、殺し屋とやらとの戦いでついた傷なのだろう。
こうしてシェンが生き延びている以上、その依頼は不首尾に終わったようだが、だからといって自分を害そうとした相手をそのまま見逃すほど、シェンは甘い男ではない。
 遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくるのを聞いたシェンは、肩をすくめてデュオロンにいった。
「――ま、詳しい話は後回しだ。面倒なことにならねェうちに、ギャラリーの少ねえ裏口から退場するぜ」
「これだけのことをされても警察に泣きつけんとは、マフィアというのは難儀な商売だな」
「ヘッ、違いねェ」
 乗ってきたダンプを放置したまま、シェンはかぼそいこえで呻く男たちを大股で跨ぎ越して歩いていく。半死半生の体をさらす黒社会の住人たちを見て嘆息し、デュオロンもまたそれにしたがった。
「――ところでデュオロンよ」
 薄汚れた暗い裏路地を歩きながら、シェンがデュオロンに尋ねる。
「何だ?」
「おまえ、アッシュの居場所を知らねぇか?」
 こちらから尋ねようと思っていた疑問を先に持ち出され、デュオロンは苦笑せざるをえなかった。
「何だよ、おい? 何がおかしい?」
「いや……おまえも知らないのか」
「は? おまえもってのはどういう意味だよ?」
「俺がおまえを捜していたのは、おまえならアッシュの行方を知っているかもしれないと考えたからなんだが」
「チッ……」
 デュオロンの言葉に、シェンは眉をひそめて舌打ちした。シェンの怒気を感じて驚いたのか、残飯をあさっていた野良猫たちが、慌ててその場から逃げていく。
 コートの襟を立て、デュオロンは横目にシェンを見つめた。
「……いったいアッシュと何があった?」
「まあ、いろいろとな。……思い出すのもムカつくが、ありていにいやぁ、俺をハメてくれやがったんだよ、アッシュくんはな」
 ふたりの足は、いつしか通い慣れた運河沿いの酒家へと向かっていた。大きく西に傾いた茜色の陽射しが、人気のない倉庫街に、ふたりの影を長く引き伸ばして描き出している。
 シェンはうっすらと傷の残る頬をかき、デュオロンに尋ねた。
「……で、おまえはどうしてアッシュを捜してんだ?」
「正確にいえば、俺が捜しているわけではない。――エリザベートという女を覚えているか?」
「ああ、おまえのチームメイトだったおカタい女か?」
「彼女がアッシュを捜している」
「何でまた?」
「詳しい事情は俺も聞いていない。……が、どうやら例の妙な連中に絡んだ話らしい」
「へえ」
 相槌を打ったシェンの顔に、獰猛な獣を思わせる笑みが浮いた。シェンがこういう表情を見せるのは、たいてい、そこに楽しそうな闘争の臭いを嗅ぎつけた時と決まっている。
「……実をいえば、アッシュが何をしようとしているのか、俺もまんざら興味がないわけではない」
「そうか? 俺は興味ねェな」
「だろうな」
 シェンが興味があるのは、強い相手と思う存分戦うことだけだろう。ある意味、とても判りやすい男だった。
「……アッシュを追いかけていれば、おのずとそういう相手が出てくることになるだろうが」
「たとえ出てこなくてもよ、こっちはアッシュをこのままにしちゃおけねえんだよ。判るだろ、親しき仲にも礼儀ありってな? ――前みてェにいっしょになって陽気に騒ぐにゃ、テメエのやらかしたことに落とし前はつけてもらわねえとよ」
「そういうものか」
「そういうもんだよ」
「具体的には?」
「1発思いっ切りブン殴る」
 シェンの拳が唸りをあげて空を打った。
「……ま、あいつは俺の舎弟みてェなモンだからな。俺をハメた件についちゃあ、それでチャラにしてやるぜ」
 不敵に笑いながら、シェンはデュオロンの肩に手を回し、馴染みの酒家に入った。
 シェンはいうまでもなく、デュオロンのほうも、あの哀れなマフィアたちのことなどすでに忘れていた。あれだけ派手にやらかしたケンカも、シェンにとっては、ごく当たり前の、日常のひとコマにしかすぎないのである。



      ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 紅丸が矢吹真吾の病室を訪ねたのは、面会時間がもうすぐ終わろうかという頃のことだった。
「悪い、久しぶりで日本の渋滞をナメてたよ。もう少し早く来るつもりだったんだが――」
「いや、ぜんぜん悪くないっす。むしろありがたいっス! わざわざすいません、二階堂さん」
 ベッドの上に身を起こした真吾は、やってきた紅丸に向かってぺこりと頭を下げた。
「よう、大門先生! こっちもお久しぶり」
「うむ」
 先に来ていた大門五郎が、いつもながらのむっつりした顔で応じる。もっとも、大門が決して不機嫌でないのだということは、紅丸にもよく判っていた。朴訥な柔道家のごくわずかな表情の変化を読み取れるほどに、ふたりのつき合いは長い。
 パイプ椅子に腰を降ろした紅丸は、包帯とギプスで全身を覆われた真吾をあらためて見やり、意味ありげに何度もうなずいた。
「……意外に元気そうじゃないか、ミイラ男」
「いやー、だって俺、身体が丈夫なことだけがとりえですから」
「ま、確かにそうかもな」
「ちょっ、紅丸さん! そこはあれですよ、そんなことないぜっていってくれるとこじゃないんですか?」
 突き放したような紅丸の反応に、真吾は苦笑混じりに頭をかいた。
 草薙京、八神庵とともに前回のKOFに出場した真吾は、大会終盤で突如“血”の暴走を起こした庵から京をかばい、全治数ヵ月の重傷を負った。
それがこうして誰かのささえもなしに身を起こして談笑できるというのは、確かに真吾のタフさの証拠といえるのかもしれない。
 入院から半月もたたずにこれでは、ベッドを降りてトレーニングを再開するといい出すのももうすぐだろう。矢吹真吾というのは、そういう向こう見ずなところのある少年だった。
「――それにしても、真吾の分際で個室とはゼイタクだな」
「ああ、この病室を押さえてくれたの、神楽さんなんです」
「ちづるさんが?」
「はい。俺は別にいいっていったんスけど、こうなったのも、もとはといえば自分のせいだからって――」
「そうか……」
 真吾が、水と油ともいえる京と庵とチームを組み、両者を共闘させようと発奮していたのは、それが“力”を失ったちづるの願いだということを知っていたからだった。
 本来、真吾の負傷に対して、ちづるが負い目を感じる必要はない。もとより格闘家が傷つくのは自己責任以外の何物でもなく、まして真吾の場合、ちづるが出場してくれと頼んだわけでもないのである。
 しかし、それでもちづるにしてみれば、自分がアッシュに“力”を奪われてさえいなければという思いがあるのだろう。八神庵が今になって“血”の暴走を起こしたのは、明らかにオロチの封印が解かれたことが原因だった。ちづるはそのことで余計に自分を責めているのだろう。
 面会時間の残りを確認し、紅丸は真吾に尋ねた。
「――おまえがすぐにブッ倒れちまったから聞くに聞けなかったんだが、あの時、あそこで何があったんだ?」
「すいません、俺にも詳しいことは……ただ、いきなり八神さんが正気を失ったみたいになって、草薙さんに襲いかかったんです。俺、どうにか草薙さんを助けたくって、八神さんを止めようとしたんですけど――」
 そこで言葉を途切らせ、真吾はうつむいた。
「……おぬしが気にすることではない」
 大門がそっと真吾の肩を叩いた。
「そりゃそうだ。もしその場にいたのが俺やゴローちゃんだったとしても、暴走した八神を止められたとは思えないからな。ありゃあ人じゃない、まさに怪物だ」
 そんな言葉がなぐさめになるはずがないと、紅丸には判っている。しかし、今はそれ以外に真吾にかけてやる言葉が見つからなかった。
「……てことは、アッシュが現れたのはその直後くらいか?」
「あ、はい。……そのへんから俺もよく覚えてないんですけど、とにかく、アッシュさんが八神さんの背後に近づいて、何かこう……人魂? っていうんですか、とにかくそんなようなものを、いきなりしゅぱって引き抜いた感じになって、それで八神さんも倒れて――」
「そこに俺たちが駆けつけたってわけか」
「たぶん……」
 紅丸たちが駆けつけた時、すでに京も庵も、それに真吾も、その場に倒れ伏して意識を失っていた。ただひとりアッシュだけが、雨の中で癇に障る冷笑を浮かべていたのである。
「……そういえば、あのあとアッシュさんはどうなったんですか?」
「逃げたよ」
 おのれの不手際を認めなければならない屈辱に、紅丸の顔がゆがんだ。
「俺とデュオロンと、それにエリザベートと――3人がかりでとっ捕まえようとしたのに、その目の前で、煙のように消えちまいやがった」
「消えた――だと!?」
 珍しく頓狂な声をあげた大門に、紅丸は渋い表情でうなずいた。
「ああ。あれはたぶん、“鏡”の力ってやつだ」
「神楽さんの……?」
 本来ならちづるの手にあるべき“鏡”の力をもちいて、アッシュは紅丸たちの前から姿を消した。それは、アッシュがその力を完全に自分のものとして使いこなしているということを意味している。
 そして紅丸は、真吾の言葉から、アッシュが八神庵の力をも奪い去ったのだということをはっきりと確信した。次に会う時、おそらくアッシュは、“勾玉”の力すら我がものとしているだろう。
 大門は眉間のシワを深くし、太い腕を組んだ。
「……神楽どのに八神と来れば、アッシュの次の狙いが京であることは明白だが……」
「そうだよ、肝心の京のヤツはどこにいるんだ?」
「…………」
 真吾と大門は顔を見合わせ、無言で首を振った。
「検査入院したんだろ? 病院はどこだよ?」
「病院はここだったんですけど、ロクに検査もしないうちにすぐに抜け出して姿をくらませちゃって――」
「あのバカ……!」
 額に手を当て、紅丸は呻いた。


 いかにも口うるさそうな看護婦に追い立てられ、紅丸と大門は病院をあとにした。
 すでに日は暮れ、あたりには蒸し暑い真夏の夜の帳が降りている。街灯に照らされた通りを並んで歩きながら、紅丸は大門に問うた。
「京のヤツ、今頃何してると思う?」
「さて……」
「らしくもなく、山ごもりでもしてんのかね?」
「……前にも一度、このようなことがあったな」
「ああ。人に努力する姿を見せたくないってのは判るけど、あいつの場合、少し極端なんだよな」
 不意をつかれたとはいえ、八神に一撃で昏倒させられた事実は、おそらく京のプライドをいたく傷つけただろう。それを払拭するために、京が人知れず技に磨きをかけているであろうことは容易に想像がつく。
「……京のほうはこれで大丈夫だな」
「ひとりで行動させておくのはあやうくはないか?」
「だからといって、あいつが俺たちに護衛されることを喜ぶとは思えないけどね」
「……確かにそうだが」
「結局、強くなりたいなら自分でどうにかするしかないのさ、ここまで来ちまったのなら。俺たちだってそうだろ?」
 大門が重々しくうなずいた。柔道の世界で何度も頂点に立ったことのある男は、おのれを磨くということの厳しさを誰よりもよく知っている。
「あとは八神の動きが気になるが――そっちはまあ、京が動けばおのずと、ってところだろ。さしあたって俺たちにできるのは……」
「どうだ、紅丸? あすにでもウチの大学の道場に来んか?」
「おいおい、勘弁してくれよ」
 野太い笑みを浮かべたチームメイトを見上げ、紅丸は苦笑混じりに肩をすくめた。
「こっちはきょう帰国したばかりなんだぜ? まだ時差ボケも治っちゃいないんだ、あしたはゆっくりと休ませてくれよ」
「冗談だ。体調管理も重要な仕事だからな」
「……ゴローちゃんが冗談をいったぜ。あしたは大雨だな」
 胸のうちにふくらむ不安を強引に笑みで押しのけ、紅丸は星の少ない夜空を見上げた。



      ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 大聖堂の傾斜のきつい天蓋の縁に腰を降ろし、足をぷらぷら揺らしながら、星の少ない夜空に向かって手をかざす。
 ネイルアートのできばえに満足げに笑った少年は、その指先に緑色の炎をともした。
 その炎が、時に赤く、時に青く、ゆらゆらとゆらめくたびに色が変化していく。それを見つめる少年の口もとには、何ともいえない乾いた笑みが張りついていた。
 セーヌ川北岸、パリ18区。街でもっとも高い丘の上に建つ大聖堂は、パリでも指折りの観光名所だが、さすがにこのような場所にまで立ち入る観光客はいない。
「――アッシュ・クリムゾン」
 不意に飛んできた女の声に、少年はあざやかな炎を握り潰して視線をめぐらせた。
「おまえがその力を手に入れたのは、炎をもてあそぶためではあるまい?」
「牡丹サン……だっけ?」
 いつの間にそこへやってきていたのか――同じく天蓋の縁に危なげなく立つ若い女を見やり、少年は冷淡に微笑んだ。
「――わざわざそんなこというためにモンマルトルまで? けっこうヒマなんだ、アナタたちって」
「くだらん」
 牡丹と呼ばれた女は憤然と眉を吊り上げ、手にしていた白い封筒を少年に投げ渡した。
「……今度の大会の“招待状”だ」
「へえ」
 指先ではさみ取った古式ゆかしく赤い封蝋の捺された封筒を一瞥し、少年はそばかすの散る鼻をひくつかせた。
「――ボクにもくれるんだ? 律儀なんだネ」
「いよいよ最後の仕上げだ、ぬかるなよ?」
「別にボクはアナタたちの部下じゃないんだ。いちいち指図するの、やめてくれるかな?」
「貴様――」
 少年の不遜な言葉に色めきたった牡丹は、しかし、すぐにその怒気を鎮めて大きく嘆息した。
「……自分の立場というものを、もう少し冷静に考えることだな。貴様がそうしていきがっていられるのはどなたのおかげなのか――あまり調子に乗ると、身を滅ぼすことになるぞ?」
「ご忠告どうもアリガト、牡丹サン。せいぜい“使えねえヤツ”っていわれないようにがんばるヨ」
「それともうひとつ」
「まだ何かあるわけ?」
「……ブラントルシュの女が、おまえを捜してパリに入ったようだ」
「ベティが?」
 一瞬、少年の顔から笑みが消えたが、その驚きの表情はすぐにまた笑みによって覆われた。
「邪魔になるようなら貴様が始末しておけ」
 そういい残して、牡丹の姿がパリ市内を見下ろす殉教者の丘から静かに消えていく。
「あーあ……」
 招待状を無造作にたたんでポケットに押し込んだ少年は、長く伸びた前髪をいじりながら、うんざりしたようにぼやいた。
「ベティも相変わらずマジメだね。もう少しのんびりできると思ったのに……」
 次の瞬間、少年の姿が赤い陽炎に包まれ、その場から消失した。



      ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 THE KING OF FIGHTERSを開催する。 ――以上 『R』

 驚くほどシンプルな内容の招待状を受け取った時、二階堂紅丸が軽い驚きを覚えたのは、その素っ気ない文面にではなく、前回大会からさして間を置かずに今度の大会の開催が決定したからだった。
「差出人は『R』――か。懐かしいね」
 見覚えのある赤い封蝋に、思わず口もとがゆるむ。
「今回の主催者……果たして何者だ?」
 青いオープンカーの後部座席をひとりで占拠していた大門が、時を同じくして自分のところにも届いた招待状を見つめ、低い声で呟いた。
「ルガールはヤツの本拠地とともに自爆したはずだが――」
「ちづるさんからの情報だと、今度の大会は世界各国のマスコミも動かしてかなり大々的にブチ上げるらしいからな。正式な記者会見が開かれれば、主催者の正体もおのずと判るさ」
 ラジオから流れてくる曲に合わせてリズムを取りながら、紅丸はハンドルを握っている。空港へのハイウェイを走るオープンカーのボディが、陽光を跳ね返して青く輝いた。
「――それにしても京のヤツ、俺と入れ違いに海外に行ってたとはね」
「山ごもりよりは、らしくはあるが」
「ま、努力が嫌いな京が率先して修行してきてくれたってのは、こっちとしては頼もしい話だよ」
 紅丸のもとに京から連絡があったのはゆうべのことだった。詳しい事情は何ひとつ説明しないくせに、あした帰国するから空港まで迎えにきてくれという一方的な電話だったが、紅丸にしてみれば、腹が立つより先に京の無事を確認できて安堵したというのが、いつわらざる心境だった。
 広々とした空港の駐車場に愛車を停め、紅丸は唇を吊り上げた。
「さて……それじゃ久しぶりに、日本最強チームの顔合わせといきますか」
 オロチと戦った時も、ネスツと戦った時も、結局はこのメンツに帰ってくる。KOFの常連といわれるチームは数多くあれど、自分たちこそが最強だという自負が、紅丸にはあった。
 爆音を響かせて滑走路へと舞い降りていくジャンボジェットを見上げ、紅丸と大門は空港のロビーへと向かった。



      ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 シャルル・ド・ゴール空港からイル・ド・フランスでパリ市内へと入ったデュオロンは、時差ボケで大あくびを連発している連れを一瞥し、冷ややかな微笑を浮かべた。
「……あンだよ?」
 デュオロンの視線に気づいたシェンが、眉をひそめて尋ねる。
「花の都にこれほど似合わない男も珍しいな」
「うるせえ」
「……今のうちにいっておくが」
 改札を抜けて地上に向かうエスカレーターに乗ったデュオロンは、毒づいているシェンに釘を刺した。
「今回のチームリーダーは、おそらくおまえが一番嫌うタイプの女だ」
「口が達者で高慢で鼻っ柱が強いってか?」
「どれも当てはまる」
「おい」
「もうひとつ、向こうが一番嫌いなタイプの男は、おそらくおまえだろう」
「おい」
「そうしたことをすべて呑み込んだ上でうまくやれ」
「気楽にいってくれるぜ……だいたい、俺をメンバーに加えたいってんなら、向こうが上海まで迎えにくるのがスジってモンじゃねえのか?」
「そういうへりくだり方を知らないお嬢さまだということさ。……プライドの高さを少々くすぐって、適当にあしらっておけばいい」
「チッ……おまえとちがって俺は正直者なんだよ。腹が立つことがありゃァはっきりといわせてもらうぜ」
「それはかまわん。……だが、あくまで俺たちの目的はアッシュを見つけ出すことだ。それを忘れるなよ」
「いわれるまでもねえ。……あの小僧、1発ブン殴って泣かしてやらなきゃ気がすまねえぜ」
 すでにくしゃくしゃになっている招待状の封筒をポケットに押し込み、シェンは両手のグローブをはめ直した。
 地下鉄のホームから地上へと上がってきたふたりを、パリの華やかな陽射しが出迎える。
 シェンだけでなく、自分もまたこの街には不似合いだということを自覚しながら、デュオロンはパリの大地を踏み締めた。



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