KOF’XII 鎮 元斎 ストーリー
斗酒拳聖――Chin Gentsai
唐代の大詩人である杜甫は、同じく唐代の大詩人として知られる李白を、「李白一斗詩百篇」と詠っている。酒好きの李白は、一斗の酒を飲めばたちまち百篇の詩を作るという意味である。
また、「斗酒なお辞せず」という言葉があるように、古来中国では、大酒飲みといえば一斗、すなわち18リットルくらいの酒は平気で飲むということになっている。
実際には、いくら酒が好きでもなかなかそうは飲めるものではないが、人里離れた竹林の奥に古びた堂を構える老人――チン・ゲンサイは、まさに斗酒なお辞せずを地で行く人間であった。
何しろ、近頃では斗酒拳聖――大酒飲みの拳法の達人とみずから名乗るくらいだから、その酒好きも堂に入ったものといえよう。
風に揺れる竹林が、さわやかな青い影を落としている。そんな川沿いの大きな岩の上で、チンは碁を打っていた。
打っていた――というより、考え込んでいる。もうかれこれ30分以上、次の手を考えて小さく唸り続けている。相手をしていた古馴染みの僧侶は――それも毎度のことだからか――特に苛立った様子もなく、いい手を思いついたら呼んでくれといい残して、境内の掃き掃除に行ってしまった。
それでチンは、こうしてただひとり、盤面と向き合っている。
かたわらにはいい飴色に艶光る愛用の瓢箪がひとつ。いつもは酒が満たされているその瓢箪も、この長考の間に、ほとんど空になっていた。「‥‥‥‥」
チンはぼりぼりと腹のあたりをかきながら、ふたたび瓢箪を手に取った。だが、ちゃぷちゃぷという軽い水音に、すぐにそれを置いて溜息をつく。
その時、不意にいきおいを増した風が竹林を大きく揺らし、そのざわめきにまぎれるようにして、チンの頭上から青い影が降ってきた。「まだまだじゃのう」
頭上を振り仰ぎもせず、チンは瓢箪の胴にくくりつけてあった赤い房を掴んでひと振りした。
「あだあっ!?」
瓢箪に鼻面を激しく打たれ、シイ・ケンスウは顔面を押さえて川に落ちた。
「ワシの隙をつこうなどとは100年早いわい」
「ううう‥‥」
ずぶ濡れで川から上がってきたケンスウは、上着を脱いで雑巾のように絞り、さっきとまったく同じポーズで碁盤に見入っている師匠を見やった。
「せやかて‥‥お師匠はんから1本取らなアカンゆうたのは、ほかならぬお師匠はんですやん」
「はて、そうじゃったかのう?」
「ちょっ‥‥忘れんとってくださいよ!あした稽古を休んで街に行きたいって俺がゆうたら、だったら1本取ってみろゆうたですやん!」
「おお、そうじゃったそうじゃった」
そんなことをいいながら、チンはまったくケンスウのほうは見ていない。
「‥‥‥‥」
ケンスウはまだぐっしょりと濡れている上着をはおり直すと、さりげなく師匠の後ろに回り込んだ。
――が、一気に間合いをつめて拳を打ち込もうとしたケンスウの鼻先に、チンは後ろも振り返らずに手にした瓢箪をずいっと突きつけた。「うわ!?」
「ケンスウや、バアさんのところへ行って、それに酒を入れてきてくれんか」
「は、はあ‥‥」
2度目の不意討ちも不発に終わったケンスウは、おとなしく空の瓢箪を受け取り、それに酒を満たすためにその場を離れた。
「――おお、おぬしもなかなか気が利くようになったのう」瓢箪にたっぷりと酒を詰め、さらにはひとかかえもありそうな酒甕をかついで戻ってきた弟子を見て、チンは相好を崩した。
「どうせお師匠はん、日暮れまでここにおるんでっしゃろ?そのくらいの酒なんぞあっという間に飲んでしまいますやん」
ごとりと岩の上に甕を置き、口に張られていた封を切る。たちまちあたりにほのかな菊の香りが広がった。
「ふむ……これは去年の重陽の節句にバアさんが作った菊酒じゃな」
柄杓を甕に突っ込み、さっそく一杯すくって口もとに運んだチンは、うまそうに喉を鳴らして喜んだ。
「うむ、うまいうまい」
「あのー‥‥ところでお師匠」
「何じゃ?」
「あしたのことなんやけど――」
「ダメじゃ」
「何でですのん!?1日くらいええやないですか!アテナやパオたちには休みなしなんてきっついこというたことないのに、どうして俺だけ!?」
「ケンスウ‥‥おぬしは保険には入っとるか?」
「はい?」
師匠が唐突に何をいい出したのか判らず、ケンスウは間の抜けた声をあげてしまった。
「何かあった場合に備えて保険に加入しとるかと聞いておるんじゃ」
「いや、そないなもんは別に‥‥第一、俺、まだ若いし」
「そういう油断が危ないんじゃよ。早いうちから万が一のことを考えておいて損はないぞい?たとえばもしワシが今すぐぽっくり逝ってしもうたとしても、保険があればバアさんに立派な葬式を出してもらえるからのう」
「そらまあ‥‥はあ」
「ま、自分が死んだあとのことをあれこれ心配するのは、人間、年を取った証拠じゃな。ワシも若い頃は向こう見ずで、いろいろと無茶ばかりしておったものじゃが――」
そういって、チンはぐびぐびと酒を飲んでいる。葬式がどうの死んだあとのことがどうのというなら、少しは酒を控えればいいのに――と思いつつ、ケンスウは余計なことはいわずに黙ってチンの次の言葉を待ったが、老人は酒を飲むばかりで次の句を継ごうとはしない。
「え?そ、それだけ?」
「いや、つまりな、何かあった時に慌てる必要がないよう、日頃から鍛錬しておけということじゃよ。‥‥特におぬしは、いきなり超能力が使えるようになったり使えなくなったり、いろいろと不安定じゃからのう」
「そ、それをいわれると‥‥」
ケンスウは岩の上に正座して頭をかいた。
確かにケンスウは、一時超能力を失っていたことがあり、それで大いに悩みもした。最近ようやく復調してきたのは事実だが、いつまた超能力が失われるかと思うと、気が気ではない部分もある。「――せやけどお師匠、俺、こないだアテナがゆうとったことを聞いて、最近思うんですけど」
「何じゃ?」
「俺やアテナが持っとるこの力って‥‥実際に、世の中の役に立つことがあるんでっしゃろか?」
「ふむ‥‥確かにそうじゃな。いつか現れるであろう強大な悪との戦いに備えて修行しろといわれても、それが具体的に何なのか判らん以上、おぬしのいうことにも一理ある」
「はあ‥‥あ、いや!も、もちろん、お師匠のいわはることを信じてないわけやないんですけど」
「じゃからな、ケンスウ。さっきもワシが保険といったではないか」
「は?」
「いつか現れる強大な悪というのは、まあ、いってみれば、人間にとっては交通事故みたいなものじゃよ」
柄杓を甕の口に置き、チンは口もとをぬぐった。
「人はいつ交通事故に遭うと判った上で保険に入るわけではない。事故に遭うかもしれん、遭ったら大変だと考えるからこそ保険に入るんじゃ。もちろん保険の出番がないのならそれにこしたことはないしのう」
「そらぁつまり‥‥俺らの力が保険ちゅうことですか?」
「ま、そういうことじゃ。強大な悪がこのまま現れぬのであれば、人の世にとってはそれが一番よいに決まっておるじゃろ。じゃが、もし現れたら誰かが戦わなければならん。現れてから修行を始めたのでは遅いのじゃ」
だから今は修行に専念しろ――というチンの主張はケンスウにも理解できる。自分たちが人類を守るために日夜修行しているのだということも理解しているつもりだった。
がしかし、だからといってたった1日の休みももらえないというのは納得がいかない。現にケンスウ以外の弟子たちは、それなりに自由に休みをもらっているのである。
だが、ケンスウはとりあえず師匠に「判りました」と頭を下げ、おとなしくその場を立ち去った。
いや――立ち去るふりをして、振り返りざまに3度目の不意討ちをこころみようとした。「おぬしもわんぱた〜んじゃのう」
「わぶっ!?」
ケンスウの拳がチンを捉えるより、チンが振るった瓢箪がケンスウの顔面にめり込み、ふたたび川に叩き落とすほうが早かった。
「――ぶはあっ!」
真っ赤になった鼻を押さえて水面に顔を出した弟子を見下ろし、チンはからからと笑った。
「しかしまあ、そのがっつだけは認めてやろうかの。‥‥いいじゃろ、このところ真面目に修行しておるようだし、1日くらいは休んでもかまわんぞ?」
「ほ、ホンマでっか!?」
「うむ」
「や、やったで!待っとってな、アテナ!あしたはデートやで!」
欣喜雀躍して水の中から飛び上がったケンスウは、そのまま水面を走って川岸まで移動し、それこそ風のような速さでどこかへ行ってしまった。
「本当にワシの言葉を理解しておるのかのう?‥‥あの熱意をもう少し修行のほうに向けてくれればいいんじゃが‥‥」
現金な弟子を見送って苦笑したチンは、何ごともなかったかのように長考に戻った。
「それにしても――本当にワシらの修行がただの保険で終わってくれれば、何も苦悩することなどないんじゃが‥‥」
不穏な呟きを残し、チンはまたひと口、酒をあおった。
チンにはケンスウやアテナのような超能力はなかったが、しかし、彼らですら察知することのできない災厄の日のことを、チンはすでに何かしら掴んでいるのかもしれない。
もっとも、人類の行く末よりも、弟子たちの将来よりも、さしあたって今のチンにとっては、目の前の次の一手のほうがよほど大切なようだった。「悩むのう‥‥」