KOF’XII キム ストーリー




 テコンドー界の至宝――キム



 正義漢である。
 それは間違いない。キムに対するその評価に異論を唱えることのできる者はいないだろう。
 しかし同時に、彼をよく知る人間のほとんどが、彼を融通の利かない一徹居士だと考えているに違いない。
 そして残念なことに、それもまた正しい評価だった。 
 韓国テコンドー界にその人ありといわれる若き達人キム――。
 彼は、どんな悪人でもテコンドーを通じて改心させることができると信じて疑わない。キムにとってのテコンドーはもはや信仰に近い概念であり、それを世界に広めることこそがおのれの使命だと信じているふしがあった。

 チャンとチョイにとっては、はなはだ不幸なことに、それはまぎれもない事実だった。



「嘆かわしい‥‥」

 稽古の合間に新聞を読んでいたキムが、眉間に深いしわを刻んで呟いた。

「う‥‥」

 300キロを超える巨体を縮こまらせ、チャンは低く呻いた。ほんの数分前まで続いていた過酷な稽古で噴き出した汗が、一気に冷めていく。

「‥‥どうかしたのかね、チャンくん?」

 キムに尋ねられ、チャンはぶるんぶるんと全身の肉を揺らして首を振った。

「いっ、いやぁ、何でもありやせんよ」

「そうか」

 言葉少なにうなずき、キムはふたたび紙面に目を落とした。

「ふぅ‥‥」

「危ないところでやんしたね、チャンの旦那」

 ちゃっかりチャンの巨体の陰に隠れていたチョイが、長い鉄の爪をつけた手で、器用に額の汗をぬぐった。

「――いったい何があったんでヤンスかねぇ?」

「よく判らねぇけど、かなり機嫌が悪そうだなあ」

 冗談でも誇張でもなく、キムの機嫌の良し悪しはふたりの死活問題に直結する。キムの機嫌の悪さに比例して、ふたりに課せられる稽古も厳しいものになるからだ。

「――さあ、ふたりとも休憩はここまで!稽古の続きだ!」

「ひっ」

 それを思わせるキムの声に、チャンとチョイは反射的に首をすくめた。



 実際のところ、キムが腹を立てているのは世の風紀の乱れ、倫理の乱れに対してであり、それは今に始まったことではない。
 しかし、それをこうした犯罪という形で目にすれば、やはり嘆かわしさに溜息が出てしまう。
 くだらない悪事などにかまけている暇があるのなら、その鬱屈した思いをテコンドーにぶつけて昇華させればいいのに――と、キムは本気でそう思っている。
 警察当局にかけ合い、チャンとチョイのふたりを自分の道場に引き取って、テコンドーを通して教育してきたのも、もとはといえばそのためだった。始めた当初はキムの考えを疑問視する向きもないではなかったが、今では一定の評価を得ている。
 チャンにしろチョイにしろ、かつては人を傷つけることを何とも思わない、抒情酌量の余地のない極悪人であったが、善人とまではいかないにしても、今ではずいぶんと人間的に丸くなった。
 それはキムの粘り強い教育の賜物というべきだろう。
 だが、キムがふたりを更正させている間にも、世の中にはあらたな悪の芽が次々に生まれている。その現実を目の当たりにすると、冷静沈着なキムも歯噛みせずにはいられなかった。



「‥‥ダンナぁ」

 その日の稽古が終わったあと、道場の片隅にぐったりとへたり込んだまま、チョイと何ごとかささやき合っていたチャンが、らしくもなく咳払いしてからキムにいった。

「何を悩んでるのかオレにゃあ判らねえけど、あんまり思いつめねェほうがいいんじゃねえですかい?」

「‥‥‥‥」

 弟子たちへの指導が終わったあとも、ひとり黙々とサンドバッグに向かって蹴りを放っていたキムは、怪訝そうな顔つきでチャンを振り返った。窓から射し込む茜色の夕日が、キムの影を床の上に細長く引き伸ばしていた。

「以前のオレぁ、自分より強ェヤツなんかいやしねえと思ってた。オレにできねえことはねえ、オレは誰より強ェんだって、ホンキで思ってたんですよ。‥‥でも、現実は違ってた」

 チャンが一対一で真正面から闘って、初めて負けた相手がキムだった。自分が決して世界一ではないということを、チャンに初めて教えてくれたのがキムだったのである。

「――あれから、オレぁダンナにくっついていろんな連中と闘ってきたけど、そのたびに思い知ったんですよ」

「そうでヤンスねえ‥‥世界にはとんでもない連中がゴロゴロしていたでヤンス。あっしたちなんてまだまだたいしたことないでヤンスよ」

「それでまあ、悟ったなんていったらカッコつけすぎかもしんねえけど、ちょいと判りかけてきたことってのがあるんですよ」

「‥‥何だ?」

「人間にゃ、できることとできねえことがあるんですよ」

 つるりと頭を撫で、チャンは苦笑した。

「ひとりの人間にできることなんてのはタカが知れてるんでさぁ」

「そうそう。だから、ダンナも――」

 あまり気張らずに、肩の力を抜いて楽に行きやしょうぜ――と、チャンとチョイはそう続けるつもりだった。
 このままキムが思い詰めすぎると、それがそのままチャンとチョイへの稽古の厳しさとなって跳ね返ってくる。それをどうにかしようと、ふたりはしめし合わせてキムを説得しようと思ったのである。
 と、キムはふっと愁眉を開くと、それに続くはずだったふたりの言葉をさえぎった。

「ありがとう、チャン、チョイ」

「‥‥は?」

「おまえたちが私を気遣ってそんなことまで考えてくれているとは‥‥正直、私はおまえたちをみくびっていたようだ」

「は?だ、ダンナ、何をいってらっしゃるんで‥‥?」

 別にふたりはキムを気遣っていたわけではない。単に自分たちを気遣っていただけである。
 だが、困惑するチャンとチョイをよそに、キムはひとりで何か納得したかのように何度もうなずきながら、

「人間は万能ではない。――確かにそうだ。おまえたちの言葉で目が醒めたよ。私ひとりですべてかかえ込もうとしても意味はなかったのだな」

「え?いやあ、まあ‥‥そういうこと‥‥になるんでヤンスかねえ?」

「そう、私ひとりにできることなどたかが知れている。――だが!私と同じ志を持った者がほかにいれば、私の理想はいつかかならず現実になるだろう。‥‥その手伝いを、おまえたちが自分から買って出てくれるとは、こんなに嬉しいことはないぞ!」

「ふごっ!?」

「どっ、どうしてそうなるでヤンスか!?」

 想像のはるか斜め上を行くキムの言葉に、チャンとチョイはぎょっとして顔を見合わせた。
 キムは軽く手を叩いてチャンとチョイに立ち上がるよううながした。

「よし!そうと決まればさっそく稽古だ!」

「ええっ!? きょうの稽古はもう終わったんじゃねえんですか!?」

「そっ、そうでヤンス!あとはもうおいしいディナーをいただいてあしたに備えて寝るだけでヤンスよ!」

「何をいっている?そんな根性ではいつまでたっても私の名代など務まらないぞ!」

「みょっ、名代って‥‥」

「おまえたちが一日も早く私の名代として理想のためにはたらけるよう、これからはさらに厳しくやるからな!」

「ち、チャンのダンナ!」

 予想外の展開に、チョイは声をひそめてチャンに耳打ちした。

「――何だかマズいことになってきたでヤンスよ!どうしてくれるでヤンスか!?」

「う、うるせえ!おまえだって賛成したじゃねえか!いまさらグダグダ抜かすな!」

「チャンのダンナのいい方が悪かったんでヤンスよ!」

「こっ、この野郎‥‥!」

 静かに睨み合うチャンとチョイ。

「ん?どうした、ふたりとも?」

「い、いえっ!何でもねえですぜ!」

「そっ、その通りでヤンス!チャンのダンナと夜の稽古に向けて気合を入れ直していたところでヤンス!」

 キムの教育的指導を恐れ、チャンとチョイはそれ以上何もいえず、微妙な笑みを浮かべてふるふると首を振った。

「そうか!よし、まずは腕立て1000回!いや、2000回からだ!」

「ひいいいいい〜!」



 キムは正義漢で、そして熱血漢である。
 ことテコンドーにおいては――試合はもちろんのこと、弟子たちの指導に対しても――いっさいの妥協をしない。

 チャンとチョイにとっては はなはだ不幸なことに、それはまぎれもない事実だった。



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